あの人が持っていて、私が持っていないもの

人はなぜだか「隣の芝生は青く見える」。
どうも自分のモノよりすごいような気がしてくるものですよね。

私は子供のころ、
お姉ちゃんと1個ずつね、と何かをもらった時に、私が先に選んだのですが←妹です、
次第に姉の持っている方が良いやつだ、と思えてきて、交換してとか、ズルいとかなんとかごねていたような…(トンデモ…?)

大人になると、ここまであからさまに表に出すことはなくても、
良いよね…、と見えないところで深いため息をついていたり、
ズルくない??、と怒り交じりの嫉妬が芽生えたり、
そこから発展してネガティブワールドへ突入ーそもそもさ…と、自分のマイナスばかりを引きずり出してきたりが始まる。

 


 
隣の誰かーあの人が持っていて、私が持っていないモノ。
資質や才能だったり、物質的なお金に関する豊かさだったり、金額には換算できない健康や自由な時間とか。 

資質や才能をうらやむことは誰にでもあると思いますが、
実は自分にないソレは、自分には必要が無かったりするもの、自分には使いこなせないものだったりします。
自分から見えるその人の1つの側面、でも物事は立体的で多面体、さまざまな要素を持ち合わせます。
たとえば、
同じ分野で仕事をしている人の中でも、インフルエンサーになるような影響力の高い人、人気の人がいますよね。フォロワーが桁違いで、いわゆるスター。
華々しくて、格好良くて、収入も高くてうらやましいーそれを維持するだけの資質があるからできることです。
良くも悪くもさらされる機会が多い、そのエネルギーに飲まれない跳ね返すような資質であり才能、だからこそ多くの人の前に立つことができる、というのが基本です。 

 

有名人って、プライベートもなくなってしまいがちで、
今自分が持っているものを無くしても、それでもあの人のアレ、欲しいですか?うらやましいですか?
ということが浮き上がってきます。

  

そう、あの人が持っていて私が持っていないもの=私が持っていてあの人が持っていないもの、でもあるということです。
私たちは、自分に必要なコトは全て持っていて、あとはそれに気づいて育てるだけ、というのがスピリチュアルな視点です。 

 



では、「隣の芝生は青く見える」はただの無いものねだりのいらない思考・感情か、
というと、そうでもありません。 

 

1つめには
それが気づきになる、ということです。
イラっとした、とか悲しかった、などのネガティブ感情全般にも言えることですが、
それが自分を見直すキッカケになります。
なんでうらやましいのか?、なんで欲しいのか?、え?本当に欲しい??、と掘り下げてみたら
「欲しいと思っていた」という過去形だったり、「そうか、実は自分は欲しいと思っていたんだ」、ということに気づく、ということもあります。

そこの何かが引っかかる、というのは
何かを知らせる合図
ー素通りしないためには必要な感覚ですね。今の自分が目を向けていることがよくわかります。 

 

そして2つめには
その気づきが発展して、自分を知ることができます。
自分のことは案外自分ではよくわからないものですよね。
うらやましいな、などの隣の芝生感を感じることで、自分はこうありたかったんだ、という方向性が見えてくるーじゃあどうする?、という行動につなげれば、自分の世界を広げることができる。


ちなみに
うらやましいなといったような「隣の芝生は青く見える」は、誰にでもある思考であり感情です。
無くなることもないでしょう。
ただ、自分の資質や才能、欲しいモノやありたい姿、それらが明確になっていればいるほど、
「青いな…(うらやましい)」に留まらず、それはそれで「青くてステキだな~」という1つとして捉え、
自分の立ち位置に帰れるようになります。
自分にもこういう部分を取り入れちゃおうかな?、とさらに自分の世界を広げる要素に発展させる思考も出てきます。


うらやむだけではなく
気づいた自分の感覚から、自分を知るキッカケとして利用していきましょう。
次第にいろいろな芝生を見ることがまた楽しくもあり、に変化して、余裕が出てくるようにもなりますよ。