自己否定と特別感

「自分なんてまだまだ」という、自分を認めない思考ー謙遜ということもありますが、
対して「自分は特別」という特別感、
私たちは、これらを同時に持っています。
あなたの場合はいかがでしょうか?

これらは、”そもそも”という根幹を掘ってみると
誰かと、何かを、「比較」することで生まれる思考・感情です。
どんな感覚が根っこにあるのか、今回はこの相反する感覚を見ていきたいと思います。
   

  

自己否定

自己否定、反対語は「自己肯定」、
自己肯定感が低い/高い、という言葉をよく聞きますね。
自分を認めているか、信頼しているか、もっと表現を広げると好きか/嫌いか、ということ。

私の場合で言えば、
以前は自己肯定感のかけらもなかったです。
自分は「最低」のラインで、その自分ですらできることをできない人、っていったいどういう人なんだろう??、みたいに、自分にも他人にも厳しいイヤな奴(!)でした。
そんな自己否定満載から、少しずつ脱却してゆくわけですが…。 

 

ここで1つ質問です。
「あなたは自分のことが好きですか?」
  

・・・第一声、どんな言葉が頭をよぎりましたか?
「好きです」なのか、「嫌いです」なのか、
はたまた「普通」とか、「別に…」とか、いろいろあったと思います。
この質問に対して、「はい、好きです」という人はなかなかいないです。
「好き」であっても、ヒトにいうのはためらわれるという、日本人特有の謙虚さもありますね。

そういった「謙虚さ」を除き、
大抵の人は、何かと条件をつけたり、質問を変形させます。
「まぁ…好きな方じゃないかなぁ」「嫌い…ではないですね」「そうですね、認めています」とか。
いえ。
質問は「好きですか?」なのですが!!、と突っ込みたいところです”(-“”-)”
これは、「自分を信頼していますか?」とか、「自分を認めていますか?」という感じの質問でも似たような結果になります。


改めて聞かれると、振り返って見ると、
結構多くの人たちが、この自分自身を「好き」という感覚をあまり持ってはいない、ということに気付きます。
自己否定満載からスタートした私も、「認めています」という回答でした。
そこで「あ、好きって言えないなぁ、言えてないんだなぁ」ということに初めて気づいたものです。

それは、
なりたい・ありたいという理想の自分から見て、今の状態が「まだまだ遠い」からとか、
隣のあの人はいいよね、○○を持っていてうらやましいな、それに比べて自分はさ、
という、フォーカスが自分に向いていないため、「比較」をして、自分なんてという感覚が、言葉にせずとも、意識をしなくても、心の奥底にあるから起こります。 

 

 

特別な存在

「VIP」という言葉、
特別なお客様専用、という場合など、サービス業などではよく使われます。
何が特別って、この3次元の物質世界では「金額」という、お金の価値観が基準となってしまうのは致し方ないところ、平たく言えば「いくら使ってくれましたか?」という金額に、平等に、
「特別」か否か、が振り分けられます。

  
このお金にまつわる「特別」以外にも、もちろん「特別」は登場します。
スピリチュアル業界でいうと、「スターシード」や「ライトワーカー」は特別感、ですね。
スターシードとは、この地球の次元上昇のために今世ここにやってきたヒトで、宇宙由来(地球以外の前世を持つ)の魂を持っています。
ライトワーカーは、スピリチュアル界だけではなく、人々に光を与えるような役割のあるヒト、という意味で使われますね。
そう、あなたはそんな特別な存在なんですよ!、という流れで使用されることが多い言葉ですが、
私は個人的にはどちらも使いません。
宇宙由来の魂は、95%以上とも言われているので、地球外の魂の記憶があってもめずらしいことではないし、ライトワーカーです!、と主張せずとも、そばにいるだけで愛をバシバシ発している人もたくさんいます。


なんて、ぶっちゃけてしまうのはよろしくない。
人はみな「承認欲求」があるからです。
誰かに「認められたい」という欲、これは消せないし消す必要もない、持っていてあたりまえの欲です。
この承認欲求、「特別だ」の中身はプラスだけとは限りません
マイナスの承認欲求ー「不幸自慢」というのもありますね。


「私は○○の経験をしてきた」
「いえいえ、そんなの甘いです、私は××だったんですよ!」
「私は△△でしたよ、信じられます??」

これも、1つの承認欲求です。
そんなにつらいことがあったんですね…、ということを認めてもらいたい。
ネガティブ沼にハマってしまうと、自己否定が転じて「不幸自慢」になり、
自分の波動をどんどん下げて、どんどん不幸を招き入れることに、
という状況のヒトも見られます。



みんな経験すること

自分自身をなかなか認められない、好きという感覚はない。
でも承認欲求はベースにあるので、特別だと思いたいーそれが不幸のベストであっても。

相反する難しい感情のせめぎあいです。
とはいえ、
複雑にしているのは私たち自身なので、結局はとてもシンプルです。

「みんな同じ経験をする」

これは私の考えなので、合う方も合わない方もいるとは思うのですが、
いつも書いているように、魂は「公平」だということ。
まぁ…公平といいつつ、見えませんのでなかなか立ち位置は微妙です。
ですが、魂の「成長」には「ショートカット」という近道がないーアメリカのような飛び級制度で、小学生の年令で大学を卒業、みたいなことはできないのですね。
コツコツ小学1年生、2年生、3年生…と積み上げるしかない。
カルマを貯めたら留年ーやり直し、もあるので、その長さはヒトに(魂に)よりマチマチです。
そのなかで、「なんでも」「全部」体験します。
お金持ちも、難民も、皇族も、兵隊も、犯罪者も、スターも、
バリバリロジック派も、変人と紙一重の感性派芸術家も、何もかもです。


なので、
「今世」という魂の一部分を切り取ってみたら「不公平」という感覚も否めないでしょう。
地球は物質次元なので、「お金」という物質でかなりの「幸・不幸感」が左右されるという側面はあります。
お金で全てが買えるわけではない、というのは皆承知の事実ですが、お金で「物質的な痛みー暑い/寒い/眠い/食べたい」などの生理的な欲求はほとんど解消することもできるからです。


だから「親ガチャ」のような言葉が出てきたりもしますが、
「今世」はそれを選んできた、に過ぎない。
みんな、同じ道を経験するのです。

  
何かの歌の歌詞のようですが
「あなたの代わりはいない」という、「オンリー1」ということに気がつきましょう。
私たち一人ひとりがそれぞれ持っている、資質、それを活かすための才能、
同じものを持っている人は1人もいません。
だから、スターシードなんて言葉を使わなくても、一人ひとりが既に「特別」な存在です。
だから「使命」なんて言葉を使わなくても、「とにかく理由なしで好き!」ということに取り組んで、楽しくて、活き活きして、充実していることーそれを経験するためにここに来ている。


誰かと、何かを比較せず
今世の自分はこれ、というものに気付いて、それを活かせるような道を創っていく、
そんな自分へフォーカスした人生にしていきましょう。
比較という思考の枠が外れたら、好きなことを楽しむ自分が好き!、と自己肯定感も比例して高まります。